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着物大事典
皆様はNHKドラマの「八重の桜」をご覧になったことはありますか?八重の桜は、福島県会津出身で、同志社大学を創設したことで知られる新島襄の妻となった新島八重の生涯を描いた作品です。この作品で登場する新島八重とその兄山本覚馬は学問発展に尽力しました。その中で、京都で最も早く女学校として創立された新英学校及女紅場(現・京都府立鴨沂高校)と新島八重についてご紹介いたします。
新島八重は会津の砲術師範の家に生まれました。八重は幼い頃より父・山本権八と兄・覚馬に砲術を教わりました。手ずから射撃を行い、鉄砲の分解から組み立てまでお手のものだったそうです。性格も快活で体力にも優れ、13歳の頃には60キロ近い米俵をしていたといわれています。今ならオリンピック選手に選ばれるような女性だったのです。
幕末には西洋から新式鉄砲や弾丸が大量に流入してきますが、山本家は新式の高島流砲術も会得していたため、容易に取り扱えてまわりに実地で教えることができました。悲劇的な最期で有名な白虎隊に所属していた少年たちにも銃砲の手ほどきをしていたそうです。その手腕を活かし、戊辰戦争ではスナイパーとして男衆よりも奮闘したとされています。明治の世では、その男勝りで快活な性格を買われて同志社大学を設立した新島襄と結婚したのです。その後は学問の発展に寄与、襄亡き後は日本赤十字社で日清日露の戦争における看護活動に奔走し、この功績が評価されて皇族以外の女性として初めて叙勲を授かります。幕末から明治にかけて女性ながら大きな活躍をした人物だったんですね。
明治二年に小学校、明治三年に中学校をつくった京都は、明治五年(1872)に、公立女学校も開校しました。中学校がつくられて間もなく、京都には英学校とドイツ学校、フランス学校の欧学舎がつくられ、女子が盛んに学びに参加しました。当時、京都府の実力者で知事になった槇村正直に女子教育の必要性を説いて、女学校の設立を要望したのが新島八重の兄山本覚馬でした。そこで、京都府は明治五年(1872) 4月に欧学舎の英学校と女紅場を合併して「新英学校及女紅場」を開校したのです。これが初の女学校で、後に京都府立京都第一高等女学校(府立第一高女)を経て現在の京都府立高校となりました。「女紅場」とは女子に裁縫や手芸、読み書きそろばんを授けた教育機関のことで、1870年以降、貧しい家の子女や芸装、期装なども対象に教育を授けることを目的として、全国各地につくられました。「新英学校及女紅場」はこれとは別のもので、華族、士族の家の子女や指導的立場にある家の婦人が通いました。家事・一般教養に加えてイギリス人教師による英語教育が行われたことも大きな違いです。新島八重は兄覚馬の推薦でこの女学校の教師になっています。
京都にはこのエリート的な新英学校及女紅場が開校してから各学区ごとに小学校内に「市中女紅場」がつくられていきました。また、島原や祇園の芸舞妓に裁縫などを教える「遊所女紅場」もつくられるなど、京都では、明治の初めから良家の子女から庶民の子女まで、学校に通って学ぶことに熱心だったのです。実は、東京にも明治五年3月に女学校がつくられています。それは官立東京女学校で、これが現在のお茶の水女子大学付属中学校・高等学校です。京都の「新英学校及女紅場」は明治五年4月の開校。官立東京女学校は明治五年三月開校。わずか一カ月だが、東京のほうが早かったのですが、京都から多くの優秀な女性を輩出した八重や襄の功績に変わりはありません。
・同志社墓地
明治 二三年(1890)1月23日に亡くなった新島襄の遺骸は、当時共同墓地であった東山の若王子山に埋葬されました。その 2年後、八重の兄で新島襄の盟友でもあった山本覚馬も亡くなり、新島襄の傍らに埋葬されました。さらにその後は、この墓地には山本家や新島家、そして同志社ゆかりの人物が埋葬されるようになり、明治三四年(1901)には、共同墓地のうち148坪を新島・山本両家の墓地とする許可が八重に下りました。八重も死後はこの墓地に埋葬され、襄の墓の隣に眠っています。八重を偲びたいという方はこの地に訪れてみてはいかがでしょうか。
いかがでしたか?今回は「八重の桜」にまつわる京都で初の女学校、新英学校及女紅場と新島八重の生涯をご紹介しました。着物に着飾って聖地巡礼をされる場合はぜひ着物レンタルVASARAをご利用ください。
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