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着物大事典
京都名所特集と銘打ってご紹介するのは、京都にある神社仏閣の特徴や歴史についてです。細かくご紹介して、観光などの際に役立てていただきたいと考えております。第7弾の今回は東寺(とうじ)です。
東寺は京都の玄関口、南区九条に建つ壮大な真言宗の寺で、東寺真言宗の総本山である。
京都駅近くから、木造の塔では日本一の高さを誇る五重塔が見えるのは、まさに京都のシンポルだ。
東寺は正しくは教王護国寺という。桓武天皇が平安京を造ったとき、京都の国家鎮護のために建立を始めた。現在の東寺は、ほば平安時代の創建当時のままといい、広大な境内謎 には立派な金堂、講堂、南大門などが建つ。五重塔は高さ約五五メートルあり、現存する
れ木造の塔では日本一である。八二三年、嵯峨天皇が東寺の管理を弘法大師空海に賜り、空海が寺の繁栄に尽くしたので、以後真言密教の根本道場として栄えた。
では、東寺があるなら西寺はないのか、という疑問が起きる。じつは平安時代には西寺も存在した。桓武天皇は平安京の入り口に羅城門を造り、都を護るために左右に東寺と西寺を建立したのだ。そして嵯峨天皇は東寺を空海に、西寺を僧守敏にゆだねた。
空海はそのころ、真言密教を開き、全国の土木事業や灌漑事業、干拓事業を進めて民衆を助けたので大変な人気だった。学問や書芸にも優れておりヒーローだった。
生海は東寺を発展させるためにあらゆる努力をした。この頃は落雷や災害によって寺が焼失することが多かったからだ。空海は寺が傷んだら天皇や公家に援助を頼んで木材を買い修復に務めた。歴代の天皇や貴族、武士たちは、弘法大師空海への帰依から、東寺への援助を惜しまなかった。とくに南北朝時代の後醍醐天皇は東寺の発展に尽力し、足利尊氏はここに本陣を置いたほどだ。
西寺は、創建当時は国の造った寺として栄えたが、落雷によって焼失し、その後再建され 、しだいに衰退し廃寺となった。守敏にまかせられていたが、寺の管理は国の財政にたよっていた。平安時代の半ばは国の財政は苦しく、そのため西寺にかける費用が捻出できなかったのだ。現在、西寺の跡は公園となり、石碑が建っているのみである。それにひきかえ、東寺は世界遺産にも登録され、いまもお大師さんの寺として庶民に親しまれている。毎月21日は「こうほうさん」といって参道に市が立ち、大勢の人が訪れる。
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