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着物大事典
京都名所特集と銘打ってご紹介するのは、京都にある神社仏閣の特徴や歴史についてです。細かくご紹介して、観光などの際に役立てていただきたいと考えております。第5弾の今回は高山寺(こうざんじ)と待庵(たいあん)です。
高山寺は京都市の北西郊外の栂尾の山中に位置し、世界遺産に指定され、紅葉の名所として知られる。創建は奈良時代といわれるが、実際に開いたのは鎌倉時代の僧・明恵によるといいます。また、日本ではじめて茶がつくられた場所として知られています。
日本に茶の種が初めて入ったのは、平安時代の初期、唐に留学した僧によるといわれていますが、本格的な茶の栽培が始まるのは鎌倉時代で、臨済宗の創始者である僧の栄西によります。
栄西は二度ほど宋にわたり建久二年(一一九一)、宋から帰国したときに茶の種を持ち帰りました。そして親しくしていた高山寺の明恵にも茶の種を分け与えたのです。
そこで明恵は高山寺の境内に茶の種をまいて栽培を始めました。
これが日本での茶の栽培の始まりであり、高山寺の茶園が日本最古の茶園といわれています。茶には仏教の修行を妨げる眠りをさます効果がありました。そこで、明恵は高山寺の茶栽培を弟子たちにもすすめたので、この後非常に盛んになり、茶の名産地といえば栂尾のことを言うようになったのです。
栂尾の茶はきわめて良質で、愛好家たちから「本茶」の称号を与えられ最上級の品質といわれ、それ以外の茶は「非茶」とされました。明恵はさらに茶の栽培を広めるため、山城の字治を栽培に最適な条件の地として選び、字治に茶栽培を伝えました。こうして栂尾にかわる天下の銘茶字治茶が誕生したのです。
高山寺の茶園で採れた茶は、鎌倉・室町時代には天皇や将軍家にも毎年献上されていました。現在も高山寺には当時の茶園の一部が残り、五月の中旬になると茶摘みがおこなわれます。また毎年十一月八日には明恵上人に新茶を献上する献茶式が開山堂で行われている。字治から茶業組合員や関係者もやってきて、明恵上人と茶の普及につくした人びとの供養をしています。
またこの寺には 『鳥獣戯画』という国宝の絵巻物があり、ウサギ、カエル、サルなどの動物を擬人化して当時の世相を風刺して描いたもので、ユーモアあふれ、リズミカルな表現は現代の漫画と同じ技法が用いられていて、日本アニメのルーツといわれています。
現在、高山寺の建物は山の森の中に点在しており、うっそうとした周囲に建つ素朴な寺はまさに山寺の雰囲気。紅葉の季節は真っ赤に染まり、目を見張る美しさがあります。
明恵に茶の種を分け与えた栄西は、その後、鎌倉幕府の庇護を受け、建仁二年(一二〇一) に源頼家の援助によって京都祇園に建仁寺を建立しました。鎌倉時代は、茶は嗜好品というよりも、薬として用いられており、栄西は晩年には 『喫茶養生記』 を著し、茶の健康効果を広めています。その序文には「茶は養生の仙薬なり。延齢の妙術なりーとあり、とくに茶は心身を爽快にして心臓をととのえ万病を除くことができ、また茶は酒の酔いと眠気を覚ます特効薬であるとしています。そこで、僧侶の間では修行中の眠気覚ましにも珍重されたといいます。
現在、建仁寺の境内は茶木の生垣で埋め尽くされています。開山堂の近くには茶碑が建ち、その裏手には小さいながら茶園も造られている。高山寺と建仁寺は仏教だけでなく日本茶 の普及につくしたのです。
茶道の始まりは、平安時代の喫茶の風習からといわれ、室町時代になると連歌の会などで茶を立てて会所の座敷に運ぶ茶湯所が設けられました。
現存する日本最古の茶室が、京都府乙訓郡大山崎町、天王山のふもとにあります。「待庵(たいあん)」という茶室で、妙喜庵という臨済宗の寺の中にあり、千利休が造ったといわれる唯一の茶室であり、国宝に指定されています。
妙喜庵は室町時代の明応年間(1492~一1501)、東福寺の春獄士芳禅師によって創建されました。現在この寺は、 山崎駅の駅前にひっそりとたたずむ。それほど大きな寺ではないが、境内に茶室の待庵があることで知られ、訪れる人も多くいらっしゃいます。
それでは利休はなぜこの地に茶室を造ったのでしょうか。それは豊臣秀吉に関係する。天保10年(1582)、本能寺で織田信長が討たれると、秀吉は備中松山から大急ぎで京へ戻り、この大山崎の地で信長を討った明智光秀と激突した。
有名な山崎の合戦である。その際、大山崎を一望のもとに見渡すことができる天王山の頂上にあった山崎城を本拠地とした。合戦はあっけなく秀吉が勝ったが、秀吉は半年ほどこの城に住み、千利休を招いてここに茶室をつくらせたのが待庵である。
利休は、急いで二畳の狭い茶室をつくり、秀吉のために茶を点じた。その後この茶室は慶長年間(一五九六5一六一五年)にふもとの妙喜庵に移された。
利休は茶室を独自の構想により侘び茶の様式を取り入れて完成させ、二畳、三畳の狭い小間を造った。それは、「直心の交」といって、主人が客と心を通い合わせるためという。では秀吉はなぜ山崎の合戦直後、利休に茶室をつくらせたのか。なぜ京の都や大坂ではなく辺鄙な山崎の地に茶室をつくらせたのか。利休は秀吉に仕える前は、織田信長に重用されて茶頭にまで採用されている。
ところが信長が討たれて、天下は秀吉の元に回ってきた。秀吉は自分が天下人になることを世の中に知らしめるため、信長が寵愛した利休を山崎合戦後にさっそく招き、利休好みの茶室を城に急遽つくらせたのではないかという。これからは天下は秀吉のものであり、茶人も秀吉に仕えよと宣言したかったのであろう。
今回は高山寺と待庵という他の観光地に隠れてしまいがちながらも有名スポットをご紹介しました。京都を知り尽くしたい、回りつくしたいという方にはぜひ知っていてほしいと思います。
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