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着物大事典
京都名所特集と銘打ってご紹介するのは、京都にある神社仏閣の特徴や歴史についてです。細かくご紹介して、観光などの際に役立てていただきたいと考えております。第5弾の今回は金閣寺(きんかくじ)と銀閣寺(ぎんかくじ)です。
京都市の北西部に連なるなだらかな山並みは北山と呼ばれているが、この北山のふもとに三代将軍・足利義満が建てたのが鹿苑寺金閣である。金閣寺は通称で正式名称は鹿苑寺で金閣とは寺の中心にある舎利殿のことだ。
鎌倉時代の公家・西園寺公経の別荘を義満がゆずり受けて、別荘に改築したのが始まりで、「北山殿.と呼ばれた。義満は将軍職を息子の義持にゆずると、この別荘を隠居所として建造し、移り住んだ。
境内の中央に鏡湖池という大きな池があり、そのほとりに金色に輝く舎利殿が建つ。これが金閣で、漆に金箔を貼った建物で、三層からなる。一層は寝殿造り、二層目は書院造り、 三層目は禅宗仏殿造りと、異なる建築様式が用いられている。金箔を貼った建物は禅寺には似つかわしくないほどのきらびやかさである。
鏡湖池に映る金閣も美しく、 庭園もまた見事で国の特別名勝となっている。庭園の裏の
方には 「タ佳亭」という小さな数寄屋造りの茶室がある。これは義満ではなく、江一戸時代の茶道家の金森宗和が建てたもの。夕暮れにここから眺める金閣はじつに美しいといわれる。 しかし、義満は隠居して住む禅寺になぜ金箔をほどこして、絢爛豪華な建物にしたのだろうか。禅寺なら金箔をほどこす必要などないではないか。
じつは北山殿は隠居所ではない。義持に将軍職をゆずっても、義満は隠居などする気はなく、政権を取り続けた。 その政権をふるう御所が北山殿だった。当時は壮大な敷地に舎利殿の金閣のほかに仏殿、書院、不動堂などもあり、いまの鹿苑寺よりずっときらびやかな豪華さで、まさに御所のようであったという。
義満は朝廷や天皇、すべての者の上に立っことをアピールするため、家臣だけでなく僧侶や天阜までもここに参集させたという。だが、義持だけは呼ばなかった。義満は義持よりも弟の義嗣を可愛がったので、義持は義満を憎み、一一人の仲は険悪だった。
一 そこで義満が没すると、義持はこの北山殿を嫌って禅宗寺院につくりかえた。 それで鹿苑寺という。仏殿、書院、不動堂は取り壊され、舎利殿と庭園だけが残されたのだ。
金闇は昭和一一五年、放火によって全焼した。その五年後に再建され、現在に至っている。
京都市内の東、東山三十六峰のひとつ月待山のふもとに、代表的な京都観光の名所である銀閣寺がある。銀閣寺は通称で、正式名称は慈照寺銀閣。室町時代になると、三代将軍足利義満の時代に北山文化が花開き、続いて八代将軍足利義政は月待山の麓に文明14年(1482)から東山山荘の造営を始めた。応仁の乱の直後で京都の町は疲弊していたが、義政は町民に税や労役を課して山荘を建立し、翌年にはここに移り住んで茶の湯や書画にふける暮らしを始めた。
この東山山荘が後の慈昭寺銀閣である。当初、この山荘には会所、 常御所、泉殿はじめいくつもの屋敷が建.っていたが、現在はぎんっかうと東求堂(とうぐどう)が残っています。東求堂は仏を祭る持仏堂で、広さは三間半四方で仏間と同仁斎という義正の書斎が設けられている。この同仁斎には付書院と違い棚がしつらえられており、本格的な書院造りの始まりだといわれる。書院造りは、現代の和風住宅に受け継がれている建築様式で、古代の寝殿造りから発展して鎌倉・室町の武家の時代に成立した。
その特徼は、まず床の間、違い棚、付書院の座敷飾りと呼ばれる設備を備えた座敷であること。書院とは、もともとは床の間のわきに付けられた出窓のような机状の棚で、明かり取りの障子が付いているスペースをいい、褝寺で僧侶が書物を読むための空間のことであった。それがやがて書院の設備を備えた座敷や建物のことを広く呼ぶようになった。
そのほか銀閣には庭園に謎の造形物がある。それが向月台と銀沙灘という砂盛り。向月台は円錐型に砂を盛り上げ頂上を平たんにした砂の造形だ。一方銀沙灘は白砂を段のように盛り上げて波の模様をつけたもの。これらは義政が造らせたものではなく、江戸時代のものだというが、いつだれが何の目的でつくったのか謎なのだ。
向月台はこの上で月待山の上に昇る月を愛でるため、銀沙灘は月光がこの砂に反射して幻想的に輝く庭を鑑賞するため、といわれるが、くわしいことは不明である。
これら砂盛りがある庭園の見事さと、書院造りのルーツとなった日本の建築史上、大変貴重な存在の東求堂は訪れる人を魅了している。
金閣寺と銀閣寺は歴史を学ぶ際に必ずと言っていいほど目にする建築物です。ぜひ、見に行かれてはいかがでしょうか。
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